霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!

霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!
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「霧島神宮と霧島神社って何が違うの?」

という疑問、実際に訪れて初めてわかりました。

霧島神宮は言わずもがな、鹿児島で一番有名な神社であり、国宝にも指定されている本殿などがあります。

わたしも、もちろん幾度となく参拝したことがあります。

霧島神社のことは詳しく知らなかったので、こちらは行ったことはありません。

きっと、霧島神宮に付随した関連のある神社であり、正直、最初は

「名前が違うだけでしょ?」

と軽く考えていたんです。

でも現地で足を踏み入れた瞬間、その雰囲気の違いに驚きました。

霧島神宮の朱塗りの壮麗な社殿は、まさに「西の日光」と呼ばれるだけの安定の威厳と美しさ。

一方で、霧島神社にまつわる歴史をたどると、火山とともに歩んできた壮絶な物語が見えてきました

噴火による遷座や分社化、神仏分離での改称など、霧島神宮と霧島神社には意外な秘密がたくさん隠されています。

「そんなに深い違いがあるの?」

と思った方、この記事を読み終える頃には、

「もうこれ以上他の記事はいらない!」

と思えるはずです。

ぜひ、歴史と信仰のドラマチックな世界に一緒に飛び込んでみましょう!

 

霧島神宮と霧島神社の違いとは?その歴史を紐解く

霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!

霧島神宮と霧島神社は、名前が似ているため混同されることが多いですが、実際にはその成り立ちや歴史に大きな違いがあります。

この2つの神社がどのようにして現在の姿になったのか、またなぜ分かれることになったのか。

その背景には火山噴火や島津家による再興といった壮大な物語が隠されています。

この記事では、霧島神宮と霧島神社の歴史を紐解きながら、それぞれの違いや魅力を深掘りしていきます。

 

霧島神宮と霧島神社の成り立ちの違い

神宮と神社は、そもそも成り立ちから違いがあることが分かりました。

起源や変遷について詳しくお伝えしていきますね。

これで参拝に訪れた時に、さらに深く清らかな心持で神聖な時間を過ごすことが出来ると思います^^

 

霧島神社の起源:火山とともに歩んだ歴史

霧島神社は、もともと高千穂峰と火常峰(御鉢)の間にあったとされ、火山を信仰の対象として発展しました。

しかし、噴火によって度々社殿が焼失し、特に1234年の文暦元年の大噴火が大きな転機となります。

この時、社殿は焼失し、山麓の各地へ遷座。現在は、霧島岑神社、霧島東神社など、4つの論社としてその名を残しています。

火山とともに歩んできた霧島神社の歴史は、自然と信仰がどれほど深く結びついていたかを物語っています。

活火山が多い「日本らしい」理由があったんだなと感じました。

私が暮らしている鹿児島市内にも「桜島」があり、噴火は日常茶飯事。

偉大なシンボルでありながら、大噴火の心配も常にある活火山なので、噴火による被害などはありありとイメージが湧いてきますし、社殿の消失は本当に辛い出来事だったと思います。

 

霧島神宮の誕生と名前の変遷

霧島神宮は、霧島神社の分社化や再興を経て誕生しました。

現在の場所に社殿が築かれたのは、文明16年(1484年)に島津忠昌が霧島東西権現を分けたことがきっかけです。

そして、明治元年の神仏分離令により「霧島神社」として一時名を改め、さらに明治7年(1874年)には「霧島神宮」に改称されました。

この歴史の中で霧島神宮は、信仰の中心地として発展し、現在では霧島地域を代表する神社となっています。

 

霧島神宮と霧島神社はなぜ分社されたのか?

私の先ず始めの疑問で、

「分ける必要があったの?」

ですが、そこにはやはり自然災害が大きく影響しているようです。

詳しく見ていきましょう。

 

文暦元年の噴火が分社を引き起こした理由

1234年の文暦元年の噴火は、霧島神社の歴史を大きく変えた出来事でした。

この噴火で霧島山の本殿が焼失し、その後、山の東側や麓へと遷座することになりました。

これが霧島岑神社や霧島東神社などの分社のきっかけとなり、各地で新たな信仰の拠点が生まれることになります。

この分社化は、地形的な理由だけでなく、当時の信仰の分布にも影響を与えました。

 

島津家の再興と東西霧島権現への分裂

文明16年(1484年)、島津忠昌が霧島神社の再興を行い、その際に「霧島東御在所権現(現在の霧島東神社)」と「西御在所霧島権現(現在の霧島神宮)」に分けられました。

この分裂は、地域ごとに信仰の中心を分散させる意図があったとも言われています。

「信仰の中心を分散させる」

私はこの言葉に違和感があり、分散させるメリットってあるんだろうかと気になり、調べてみることにしました。

霧島神社の分社化には、単に地理的な理由だけでなく、当時の社会や政治的な背景も影響していたと考えられます。

特に島津家は、地域の信仰を巧みに利用し、領地内の安定や結束を図ることを目的としていました。

霧島山を中心に複数の神社を配置することで、それぞれの地域で信仰を育み、民衆を結びつける役割を果たしていたのです。

また、分散した信仰の拠点は、火山活動による被害リスクを軽減するという実利的な側面も持っていました。

一つの神社に信仰が集中していた場合、大規模な噴火で信仰の場が失われる可能性が高まります。

しかし、複数の拠点を持つことで、どこか一箇所が被害を受けても他の神社が信仰を継続できる仕組みを作ったと推測されています。

さらに、これらの神社は地域ごとの特色を持つようになり、それぞれの土地に根付いた信仰が発展しました。

霧島神宮や霧島東神社、霧島岑神社といった神社の歴史を見ると、分散した結果、それぞれが独自の魅力を持つようになったことがわかります。

島津家はその後も霧島神宮を厚く崇敬し、現在の壮麗な社殿の基盤を築きました。

この再興と分裂の歴史が、今日の霧島神宮と霧島神社の違いを生むきっかけとなったのです。

噴火という悲しい不運な出来事も、こうやって時代を経て良いことに変わっていくんですね。

規模は違えど、私たち人間も同じだなと感じました。

人間関係や仕事、お金に対する考え方にも大いに関わるなと自分事として振り返る機会となりました。

辛い経験も、輝く未来への伏線に違いありません、頑張っていきましょう。。。!

 

霧島神宮の魅力とは?文化財と歴史を楽しむ方法

霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!

霧島神宮は、ただの神社ではありません。

足を踏み入れた瞬間、そこには歴史の重みと文化財の華麗さが広がっていて、まるで時代をタイムスリップしたような感覚になります。

「これが神社?」と思うほどの豪華な社殿は、国宝に指定されるのも納得の美しさ。

しかも、その歴史には驚くべきエピソードが詰まっているんです。

境内を歩けば、神木や古宮址といった見逃せないスポットが点在し、歴史好きや観光客にとってはまさに宝の山。

一体どんな魅力が詰まっているのか、少しずつご紹介しますね!

 

 国宝・重要文化財に指定された霧島神宮の社殿

霧島神宮の社殿を初めて目にした時、思わず「西の日光」と呼ばれる理由に納得しました。

朱塗りの外観はもちろんのこと、細部まで施された彫刻や彩色がなんとも見事。

特に本殿の内部は、柱や梁まで朱漆が塗られ、その上に鮮やかな彩色文様が施されています。

外見だけでなく内装までこんなに凝っている神社は珍しいんです。

島津吉貴が正徳5年(1715年)に再建したこの社殿は、まさに職人技の結晶と言えるでしょう。

写真では伝わらないこの豪華さ、ぜひその目で確かめてくださいね!

 

「西の日光」と呼ばれる美しさの秘密

霧島神宮が「西の日光」と呼ばれるのには理由があります。

それは、まるで日光東照宮を思わせるような華麗さ。

朱塗りの社殿と極彩色の彫刻は、まるで宝石箱のようです。

外観だけでも目を奪われますが、よく見ると柱や梁に施された繊細な装飾に驚かされます。

神社の境内に立つと、その優美な雰囲気に圧倒され、つい時間を忘れてしまうほど。

この美しさが400年以上も守られていることを考えると、歴史的価値が一層深く感じられます。

社殿に向かうまでの、濃い緑に包まれた参道までの道のりも風情があって神秘的な雰囲気をさらに演出していて素敵ですよ。

私はこの参道が大好きです。

 

島津吉貴による現在の社殿の再建

現在の霧島神宮の社殿は、1715年に島津吉貴が再建したものです。

なんと310年前、、、素晴らしいですね。

当時の技術を駆使して作られたこの社殿は、見事なまでの豪華さを誇り、まさに「職人技の極み」と言えるもの。

朱塗りの柱や彩色の彫刻は、彼がこの地の信仰にどれだけ深い敬意を抱いていたかを物語っています。

また、この社殿は当時の日本の技術の高さを象徴する存在でもあり、国内外からの観光客を惹きつけています。

島津吉貴が注いだ情熱を感じながら、ぜひこの豪華な社殿を見学してみてください!

霧島神宮に関する詳しい記事はこちら

 

霧島神社とは?4つの論社

霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!

霧島神社という名前を耳にした時、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか?

実は、霧島神社の名前を持つ神社は複数存在し、それぞれが独自の歴史や伝承を持っています。

火山の噴火や時代の移り変わりによって遷座や分社が繰り返され、現在では「霧島六社権現」の中核として4つの論社が残されています。

 

 霧島神社に関わる4つの神社を徹底解説

霧島神社にまつわる4つの神社は、それぞれ異なる場所にありながら、霧島山と深く結びついた歴史を共有しています。

これらの神社を巡ると、火山の噴火や山岳信仰の壮大なストーリーが浮かび上がります。

この章では、それぞれの神社がどのような歴史を歩み、どのような魅力を持つのかを詳しく見ていきましょう。

 

霧島岑神社:宮崎県小林市に残る伝承

宮崎県小林市にある霧島岑神社は、霧島六社権現の一つであり、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を主祭神としています。

この神社は、火山の噴火により幾度も社殿が焼失した歴史を持ち、特に1234年の文暦元年の噴火後、現在の場所へと遷座されました。

周囲には古の雰囲気が漂い、訪れるだけで歴史の息吹を感じることができます。

 

東霧島神社:伊弉諾尊を祀る宮崎の名社

東霧島神社は、宮崎県都城市に位置し、伊弉諾尊を祭神とする神社です。

この神社も火山の噴火によって影響を受けながら再建され、現在に至ります。

参道には自然の石畳が広がり、静寂の中に神聖な空気が漂っています。

地元の人々にも親しまれており、特に初詣や祭事の際には多くの参拝者で賑わいます。

 

霧島東神社:歴史の中心に位置する神社

霧島東神社は、宮崎県西諸県郡高原町にあり、伊弉諾尊と伊弉冉尊を祀っています。

この神社は、かつて霧島神社の中心的存在であったとされ、霧島山と深い関係があります。

霧島山の東に位置するため「東神社」と呼ばれるようになり、古代の山岳信仰の名残を色濃く残しています。

 

霧島神宮:現在の霧島神社の後継とされる神社

現在の霧島神宮は、霧島神社の後継とも言える存在です。

鹿児島県霧島市に位置し、火山の噴火や遷座を経て現在の地に落ち着きました。

「西霧島権現」として歴史に名を刻み、明治時代の神仏分離によって霧島神宮として再出発を果たしました。

その壮麗な社殿や豊かな自然環境は、訪れる人々を魅了し続けています。

 

神仏分離令後の霧島神社の変遷

明治時代の神仏分離令は、霧島神社にとっても大きな転機となりました。

この改革によって神社の名称が改められ、いくつかの神社が合祀されたり改称されたりしました。

この章では、明治以降の霧島神社の変遷について詳しく見ていきます。

 

明治時代の合祀と改称の流れ

明治6年(1873年)、霧島六社権現に数えられていた夷守神社が霧島岑神社に合祀され、その跡地が現在の霧島神社となりました。

また、明治7年(1874年)には霧島神社が「霧島神宮」に改称され、官幣大社としてその地位を確立しました。

 

この流れの中で、東霧島神社や霧島東神社も摂社としての役割を担うようになり、霧島山の信仰が新たな形で継承されていったのです。

霧島は、スピリチュアル能力が長けている方々が引っ越してきて移住されたりと、神聖な場所として有名です。

 

まとめ

霧島神宮と霧島神社の違いとは?知られざる歴史と意外な秘密を紹介!

霧島神宮と霧島神社は、名前が似ているだけでなく、火山の噴火や信仰の歴史を背景に深く結びついています。

霧島神宮の壮麗な社殿や「西の日光」と呼ばれる美しさは、現在も多くの人を魅了しています。

一方で、霧島神社にまつわる4つの論社やその遺構は、霧島山信仰の広がりを物語っています。

両者の歴史を知ることで、この地がいかに自然と人々の祈りによって形作られてきたかがよく分かります。

ぜひ訪れる際には、歴史に思いを馳せながらそれぞれの魅力を体感してください!